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【コラム】安政元年「安政東海地震」の旧小林村「震災追弔碑」を訪ねて(沼津市)

安政元年「安政東海地震」

 

2017年9月27日、翌日に行われる「関東弁護士会連合会シンポジウム」の準備のため、新幹線三島駅に降り立つ。本来は三島で東海道線に乗り換えて沼津へで向かうのだが、静岡県随一の人気チェーン「さわやか」で昼食をとるため三島駅からタクシーに乗る。その後、再びタクシーで黄瀬川を越え、沼津市内にある「震災追弔之碑」へ向かう。灌漑用水地として設置された「門池」の近く、細く曲がりくねった路が入り組む住宅街にそれは残っている。

 

 

安政元年11月4日(西暦1854年12月23日)の午前9時ころ、遠州灘の駿河湾周辺沖でマグニチュード8.4という巨大地震が発生する。関東、中部、近畿の広範囲で震度5以上、最大震度7の激しい地震が起きた。千葉から四国までの太平洋沿岸に津波が来襲し、震源地の遠州灘沿岸部では6メートルの津波が押し寄せた。死者は2千~3千人、倒壊・焼失建物は数万に及んだという。

 

 

小林村「震災追弔之碑」

 

小林村(今の沼津市北部)の集落で大規模な地滑りが発生し、土地が陥没。集落の9戸がすべて埋没するという被害が発生した。救出かなわず11名が亡くなり、ご遺体の発見に至ったのはわずかに2名であった。地震から50年。既に世は江戸から明治となっていた。当時の村長が、ご遺体の発見に至らなかった9名のために石碑を立てた。

 

 

石碑は、河川や用水路の跡と思われる細い道が入り組んだ住宅街に存在する。大人の背丈よりも相当大きなものであり、正面上部には大きく「震災追弔之碑」と刻まれている。正面右側には、近年設置された石碑の説明書きがあり、伝承内容がよくわかる工夫もされている。以下に説明書きの石碑文書を抜き出す(漢字は数字に修正)。

 

「震災追弔之碑 説明」

 

安政元年(1854)11月4日、駿河地方に大震災が起きた。このとき、ここ駿東郡大岡村南小林の約2ヘクタールほどの土地が一瞬のうちに約6メートル陥没し、住家9戸がすべて埋没してしまった。時に午前10時。あまりにも急なことだったので逃げるひまもなく、土中に生き埋めとなり、泣き叫んで救いを求め、村人がかけつけたが、地震のため村の北側の用水路が決壊し、水が流れ込んできたので、ついに救うことができなかった。死11名、死体が発見されたのはわずかに2人だけであった。陥没の跡は巨大な穴となり、数年経ってからようやく草が生え始めた後に、村人が樹木を植えたので、その後は林になっている。大地震から50年後経った今日、村長日吉昌平が村人と相談し、この地に石碑を立て、九人の霊に対し、永く哀悼の意を表そうとするものである。

 

明治36年11月 従七位川口信之選文

 

何と迫力のある、そして悲惨さの伝わる碑文であろうか。

生きられなかった無念。助けられなかった無念。

双方の怨念のような悲痛が聞こえてくるようである。

 

 

 

 

 

国道1号線沿いにある「沼津市明治資料館」には「小林村変地之図」(「嘉永七年甲寅歳地震之記」)というものが残されている。残念ながらこの日は資料館が臨時休刊日であり、建物前まで行ったものの、実際に絵をこの目にすることはできなかった。なお、インターネットで検索すると当該図を参照することはできる。これによると死者9名、7人は発見されたが2名は行方不明という記録があるそうで、石碑の説明とは若干異なることは念のため記述しておく。

 

 

32時間後の「安政南海地震」

 

安政東海地震が発生してから僅か32時間後、安政元年11月5日(1854年12月24日)の午後4時ころ、同じく遠州灘の紀伊半島・四国沖を震源とするマグニチュード8.4の地震が発生。多くの被害が出たが、「安政東海地震」と近接しており個別の被災者数などは判明しない。その後も激しい余震は数か月続いたという。安政東海地震と安政南海地震を併せて「安政大地震」と称される。

 

安政大地震は、現在警戒されている南海トラフ地震と同じ震源域で発生した。この地域に巨大地震が群発し、多くの犠牲を生んだという歴史の痕跡の一部を確認できた。

大地震の翌年、安政2年10月2日(1855年11月11日)には、マグニチュード6.9の江戸直下型地震が発生した。江戸で大火災が発生し、死者は1万人に達したという。安政年間の大激震は、まさに江戸幕府の終わり、明治維新への動乱のうねりを生むことになったのである。

 

 

 

(主な参考資料)

・宇佐美龍夫『日本被害地震総覧 599-2012』(東京大学出版会)

・沼津市ウェブサイト