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【コラム】災害対策基本法のきっかけ昭和34年伊勢湾台風『四日市市伊勢湾台風殉難慰霊碑』を訪ねて(2017.01_メモ)

1959(昭和34)年9月26日。紀伊半島に上陸した台風15号。暴風と高潮。海が傾いたと表現されるほどの水害を引き起こす。死者・行方不明者数は5,098名と台風被害では明治以降最大となった。

 

伊勢湾台風である。

 

被害は日本全国に及んだが、愛知県、三重県、岐阜県の被害は特に甚大であった(詳細は内閣府参照

 

その後、四日市市では伊勢湾台風以降は多数の死傷者を出すような巨大災害は起きていない。すでに多くの市民にとって災害は身近な存在ではない。四日市に隣接する桑名市の慰霊碑は有名だが、四日市市内にも慰霊碑が存在することや、場所を明確に指摘できる方も少なくなっている。

 

2017年1月28日、四日市市防災大学の講師を担当する機会があったので、この伊勢湾台風の慰霊碑を訪ねる。名古屋から近鉄乗車し、近鉄冨田駅で下車。タクシーで冨田海浜緑地公園を目指す。いわゆる「名四国道」沿いだ。かつて海岸だった場所に『四日市市伊勢湾台風殉難慰霊碑』が立っている。国道からは大きな壁のおかげで全く見えない。車を運転していて碑を目にすることはないのだ。実際、この日の講演冒頭で、この写真を見せながら聴講者に聞いてみたが、これが何かわかる方はごく僅かだった。

 

 

石碑には以下の文書が彫られている。壮絶で悲惨な被災状況と犠牲になった方の恐怖と無念がひしひしと伝わる碑文だ。

 

『四日市市伊勢湾台風殉難慰霊碑』

昭和三十四年九月二十六日、潮岬西方に上陸した九二九・五ミリバールの伊勢湾台風は二〇時に奈良県中部二一時には揖斐川上流に達した。この間伊勢湾は最悪の条件の下におかれ、ために四日市市の沿岸地区は空前の大災害を蒙った。即ち平均最大風速三七メートルの暴風は時に五〇メートルをこえ、気圧の低下と強風による水位の上昇は推算潮位を三・五五メートルもこえた。高まった海面に狂い立つ波高三メートルの怒濤はたちまちに防波堤を超え、堤防を崩し、人家を襲ってつぎつぎにこれを破壊し去った。暗夜あれくるう暴風雨の中に、何人も夢想だにしなかった持参事が突発した。救いを求める必死の叫も空しく暴風に消え、互にかばいあう声も共に濁水に没したあるいは流木に傷つき、あるいは水 に溺れ、非命の死をとげた市民は実 に一一四名を数えた。

今ここに年を累ねて完成した防災施 設を見る毎に、あの夜の痛ましい犠牲者を思う心いよいよ切なるものがある。よって三重県、四日市市及び被災地区は共に貲を捨てて災害の最 も激甚であったこの地に慰霊碑を建て、殉難諸精霊にとこしなえの冥福を祈るものである。

 

 

裏にも銘が刻まれている。

 

伊勢湾台風七周年を記念しこれを建立す

昭和四十一年九月二十六日

四日市市伊勢湾台風殉難慰霊碑建立委員会

四日市市長 九鬼喜久男 書

四日市仏教会々長 龍泉寺住職 龍池清眞 撰

鷲山明 書

山本千吉 刻

 

 

近くには平成元年になって立てられた水位を示す看板がある。この場所1.8メートルの水位だったというから驚愕する。

 

 

 

伊勢湾台風潮位T・P+3.29メートル

被災水位表示板

伊勢湾台風は、昭和34年9月26日伊勢湾沿岸に大災害をもたらし、高潮や洪水による死者・ 行方不明者は3県下で4,637名・市内で114名にも及びました。当時の浸水高を現地に表示して災害を再認識し、河川・海岸施設整備の必要性を理解していただくため、この表示板を設置したも のです。

平成元年9月

伊勢湾台風30年事業実行委員会

建設省三重工事事務所

四日市市

 

 

伊勢湾台風においては災害復旧を統括する政府本部により、復旧、復興、被災者支援の対応が行われ、これらの教訓を反映させて、1961(昭和36)年に災害対策基本法が成立する。従来の法の枠組みを残したまま、一般法として不足部分を補うものである。①防災責任の明確化、②総合的防災行政の推進、③計画的防災行政の推進、④激甚災害等に対する財政援助、⑤災害緊急事態に対する措置が軸に掲げられた(現在の災害対策基本法の概要はこちら)。

 

 

 

伊勢湾台風の後に作られた堤防もすでに老朽化している。四日市市では国や県に対して補修要望を行っているという。