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【コラム】阪神・淡路大震災と尼崎市・築地本町地区(備忘メモ)

訪れたのは夜のほんの一瞬なので備忘メモとして。

 

1995年1月17日、午前5時46分、淡路島北部を震源とする地震が発生。マグニチュード7.3。神戸、芦屋、西宮、宝塚、淡路島の広範囲で震度7を記録。この兵庫県南部地震は神戸を中心とする大都市を破壊し、「阪神・淡路大震災」という未曽有の大被害を引き起こす。

 

死者は6434人。18万世帯以上が全壊被害を受けた。

 

兵庫県尼崎市では推定震度6。死者49人。全壊6000棟以上に及ぶ。武庫之荘の座屈した大規模集合住宅、落下した新幹線高架など激しい破壊が各所でおきた。近代になって沿岸部に造成された「築地地区」は、大規模な液状化現象が発生し、住宅全壊や傾斜被害は全地域で起きた。

 

当時、国は建築制限のある「2か月」のうちに速やかに復興計画を策定する方針を立て、各自治体も拙速な計画を力推しで進める傾向にあった。例えば神戸市の新長田地区などは、住民の声が反映されたとは言い難い計画により多くの禍根を残し、地域コミュニティの崩壊をもたらしたとされる。現在も商店街にはシャッターが目立つ。

これに対し尼崎市の築地地区の住民は、拙速な復興計画決定は受け入れられないとする意思を示す。尼崎市も時間をかけることに合意し、「震災から2か月」を経過したのちに復興計画を策定することになる。当時、このような地域は尼崎市築地地域が唯一であった。

 

復興まちづくりには、いくつかの手法があるが、土地区画整理事業の場合は、土地の価値が上がることが通常で、賃貸住宅も減り、賃料も上昇するなど、賃借人らが住み続けられないことがしばしばおき、地域の住民コミュニティは崩壊する危険がある。住宅地区改良事業は、全面的に区域を買収して集合の公営住宅の建設となるため、住宅街としての従来の趣は消えてしまう。

地域を維持するとともに、賃借人も残ることができる工夫が考えられた。住宅地区改良事業で公営集合住宅をつくり、いままでの借家人が住み続けられるようにする。その一方で、区域内においても、戸建ても含めた民間住宅が建てられるよう土地利用用途を指定するという手法が考え出されたのだ。公営住宅も和風の外観となり、集会室も棟と棟の間に設けられた。歴史ある築地の街並みが意識された計画となった。住民と行政による集会は数十回どころか100回以上に及んだという。

 

 

築地の復興にまなぶべき「復興まちづくり」への姿勢と「合意形成」への妥協なき挑戦は今後も承継されるべき智慧の一つではないだろうか。

参考

尼崎市ウェブサイト
図説:尼崎の歴史