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【コラム】鳥取砂丘を生んだ千代川・袋川の洪水慰霊碑「溺死海会塔」

 

鳥取「袋川」の大洪水を伝える「溺死海会塔」

 

寛政7年(旧暦1975年8月29日)に、大雨により現在の鳥取市内を流れる「袋川」があふれ、約650名の犠牲者を出した。この地域は、文禄2年(1593)、寛永12年(1635)、寛文13年(1673)、享保14年(1729)にも洪水で甚大な被害が発生しているという(国土地理院・自然災害伝承碑マップより)。

 

寛政7年の水害を伝える石碑「溺死海会塔(できしかいえとう)」は、現在の「浜坂」地域の宅地造成エリアにある。場所は開発により転々としているが、かつて袋川が千代川と合流していた地点に落ち着いた模様。建立は七回忌となる享和元年(1801年)になる。

2メートルもある巨大な四角柱の玄武岩に、「溺死海会塔」と彫られている。そのほかの3面には、びっしりと漢文が刻まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥取砂丘を作った千代川・袋川

 

鳥取砂丘は古くは10万年前からその姿を見せ始める。鳥取を流れる一級河川「千代川(せんだいがわ)」が、風化した中国山地の花こう岩を削り、海へ砂を大量に吐き出す。その砂は日本海の波と北風で陸に打ち上げられ、大きな砂の山脈を形成するに至る。大きな窪みと大きな「馬の背」と呼ばれる砂の山脈もそうした川、海、風が作り出した。

 

その千代川の支流が「袋川」。冒頭述べたように、過去何度も氾濫した歴史が残っている。石碑のある住宅街も、かつては砂丘の端の砂地だったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住宅街で大切に保存されている巨大碑

 

石碑があるのは何の変哲もない住宅街。特に解説文もない。地元をよく知り、浜坂エリアの住宅地をよく訪れるというタクシー運転手ですら、石碑の存在は知らなかったとのこと。2019年6月から運用を開始した国土地理院の自然災害伝承碑マップがなければ、私もここを訪れることはなかった。

実際に石碑の前に立って向き合い、周囲を巡る。

巨大な石碑と、長く刻まれた文字。

圧倒的な迫力が石碑から伝わってくる。

碑文は鳥取藩「伊藤惟猷」。筆は同藩の「堀徴」。

ぜひ今後も大切に保管され、かつての水害の歴史が伝承されることを願う。

(2019年11月9日)