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【コラム】「昭和23年福井地震」鎮魂と不死鳥の祈りを追いかけて

2024年4月29日から30日にかけて、福井大学医学部看護学科における「災害復興法学」講義のために福井に滞在しました。

福井市内で巡ることができる「福井地震」の慰霊碑や災害伝承碑を訪ねました。ゆく先々で新たなる発見があり、思わぬ大紀行となりました。

 

1948年(昭和23年)6月28日、福井平野を震源とするマグニチュード7.1の内陸型の地震が発生しました。当時はなかった「震度7」を創設するきっかけにもなった地震です。戦後間もない復興途上の市街地を直撃し、福井市を中心に、住家全壊34,000棟、住家焼失4,100棟の被害をもたらしました。死者は3,769人。(内閣府ホームページ「福井地震」

同じ年の7月には「福井豪雨」が発生する。地震による堤防が沈下していたことで水害被害が拡大した。福井市は、戦争による空襲被害、福井地震被害、そして福井豪雨被害の3つの複合災害を、終戦前後の数年間のうちに経験することになったのです。

福井地震の記念碑は各所にありますが、一番メジャーなものは、福井城跡の福井中央公園にあるモニュメント『震災記念碑』ではないでしょうか。イベントで賑わう広い公園に、ほかの記念碑などとともに鎮座しています。なお、福井市は「不死鳥のねがい(福井市市民憲章)」を作っています。戦争、地震、水害から復活を遂げた思いが刻まれています。

福井は、3つの災厄から復興を果たした、不死鳥(フェニックス)の町なのです。

昭和36年に建立された『震災記念碑』の碑文は次の通り。

 

昭和二十三年六月二十八日 突発せる激震により 本市は瞬時にして壊滅の悲運に遭遇した 此碑は此未曾有の災禍を永久に記念するために建てたものである 市民は常に此災禍を想起して 心を戒め 身を慎むと共に当時寄せられた内外の温かい同胞愛と人類愛を胸に刻み 感謝報恩の念に燃えつ、日常の業務にいそしまねばならない  

福井市

 

 

もうひとつ福井市の中心街にある福井地震を伝える碑としては「慰霊碑塔・慈母観音」がある。福井市の足羽山(あすわやま)西墓地にある。「みどり図書館」や福井運動公園・スタジアムまで緑道でつながる緑豊かなまちづくりがなされているエリアでもある。やっとの思いで足羽山の頂上付近にある慰霊碑塔にたどり着く。白く、大きく、希望を照らす灯台のようでもあり、天に向かって祈っているようでもある。まさに「慰霊碑」としての荘厳さと重厚さがある。

ところが、慰霊碑の台座の階段を上って扉の中を覗き見ると、何かが存在した(おそらく慈母観音であることは間違いない)ところには台座はあるものの、肝心の像(あるいはモニュメント)が存在しないのである。

また、慰霊塔の横には、看板が取り付けてあったであろう跡はあるが、やはり、肝心の説明看板は取り外されて存在しない。

総務省のウェブサイトによると、当初は以下のような説明が掲示されていたようである。

 

慰霊碑塔(慈母観音)

この慰霊碑塔は、昭和二十年七月十九日夜半の福井空襲による、一、五八三名の戦災殉難者、同二十三年六月二十八日夕方、福井地方の大震災による一、六二七名の震災死者の諸精霊を慰めるため、多くの市民の浄財により昭和三十六年十一月に建立された。塔内に安置されている慈母観音像(けやき一木彫像の総丈二米 多田瑞穂氏造)は、それよりさき昭和二十二年六月福井県宗教文化協会(故 前田岳洋氏主催)が発願造像したもので、縁あってこの慰霊碑塔内におさめられています。その後、福井市による追悼式や、慈母観音奉賛会が主催する慰霊法要が営まれています。また、この慈母観音像を母親観音像として、市内四十余ヶ所の戦災・震災に関係する地に、西国観音霊場に準じた観音像を祀り慈母観音の御分身として分祀し、戦災・震災犠牲者の諸精霊の供養と福井市の復興と世界の平和を祈念して慈母観音札所会が結成され、毎年四万八千観音功徳日に大祭を厳修し、当日この観音像を起点として各札所霊場を巡拝するならわしになっています。
福井市
復興慈母観音奉賛会

調べてみると、老朽化や「政教分離」の観点から、仏像である慈母観音像については、撤去のうえ、現在は「西山光照寺」に引き取られているとのことでした。

 

翌日、福井大学の講義を終え、午後になってから、電車とバスを乗り継いで「丸岡城」を初訪問。現存十二天守の1つとして有名です。小さいながらも美しいフォルムと、江戸時代から変わらない天守閣とその内部構造を多能しました。この丸岡城のすぐ近くの「國神神社」の境内に、通りからよく見えるように福井地震の石碑が設置されいます。

かなりの高さがあり、『震災復興記念碑』と大きく掘られた石碑には、特に碑文はありません。

「丸岡町長 友影賢世謹書」とのみ刻まれています。

丸岡町は、福井地震の震源となり、一帯が地震と火災で壊滅した町でもある。震災復興を象徴する石碑の大きさが、復興したことへの喜びと、将来へ教訓を伝える強い意思を物語るようです。

 

 

この「震災復興記念碑」がある國神神社の隣にそって、丸岡城のお堀にもなっている田島川があります。そこに架かる、朱色の「神明橋」(しんめいばし)のところには大きな「ダブノキ」があります。そして立て看板も。これもまた福井地震の記憶を伝える生きた証人だったのです。看板には次の説明がありました。なお、訪問時には「しめなわ」はありませんでした。

震災復興記念碑・タブノキ・丸岡城を1枚の写真に納めることができました。

タブの木

指定 市指定文化財 天然記念物 

指定年月日 昭和四十九年一月八日 

所在地 丸岡町 霞

このタブの木は、古くからこの地に育っていた。国神神社がこの地に移されてから神木とされ、周囲に柵をめぐらし「牛馬つなぐべからず」の禁札がたてられていた。

昭和二十三年の福井大震災のため、神舎境内の数百年を経た大杉・大銀杏・大けやきなどが焼失したが、唯一このタブの木のみ焼失を免れた。今も注連縄(しめなわ)を締め、神木として大切に保存されている。

 

 

さて、残すは消えた(?)慈母観音の行方である「西山光照寺」へ。バスを乗り継ぎ、「裁判所前」のバス停から西山光照寺を目指します。その途中、福井地方裁判所の堅牢かつ重厚感のある建物が嫌でも目に入ってきます。じつは、ここにも福井震災にまつわる復興への祈りがありました。

福井地方裁判所は、現在の福井駅近くにあったそうですが、太平洋戦争時の福井空襲によって1945年7月に焼失。その後移転して現在の地(福井市春山1-1-1)に再築されるものの、1947年の福井地震で倒壊。三度目の正直と復興のシンボルとして、堅牢、重厚、荘厳な巨大な建築物として蘇ったのが現在の庁舎。竣工は1954年。司法機関である福井地方裁判所が復興のシンボルになるというのはとても珍しい現象のように感じます。

 

裁判所を過ぎてさらに歩いた先に、いよいよ天台宗「西山光照寺」(福井市花月)。

お寺の境内からまず目に飛び込んでくるのは「福井大仏」。7mの巨大な聖観音菩薩坐像です。

もともとはこの地から少し南にあった天台宗光照寺の境内にあったものでしたが、福井空襲、福井地震、福井豪雨の3つの災害によって壊滅してしまいました。移転・再建の地が現在の西山光照寺だということです。大仏様もまた、3つの大災害に深くかかわっていたのでした。境内には、石碑に刻まれた丁寧な説明文があります。

 

 

さて、もともとは足羽山墓地の巨大な慰霊塔の中にあった「慈母観音」はどこでしょうか。実は、この福井大仏の台座の中の空間にあります。中は仏像や書が展示され、だれでも出入りできる空間になっています。空っぽの台座でがっくり来ていたところ、ついにご対面となりました。

仏教関連の知識はほぼありませんが、慈母観音様のなんとも安らかなお顔は、「慈母」と呼ぶにふさわしい表情で、慰霊のための仏像として心を込めて彫られたことが伝わってきます。政教分離ということで、足羽山の慰霊塔からは移設となりましたが、こうしていまでも鎮魂の祈りの対象になっています。事前にお寺の許可をいただき写真を撮らせていただきました。