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【コラム】四日市市街地の「安政大地震」遺構を訪ねて

2018年1月27日、四日市市危機管理室主催の「四日市市防災大学」の講演に登壇する前の時間帯を利用し、四日市市内に残る自然災害遺構を訪ねる。1年前にも防災大学の講義を担当したが、その際には「伊勢湾台風」の慰霊碑を訪ねた(【コラム】災害対策基本法のきっかけ昭和34年伊勢湾台風『四日市市伊勢湾台風殉難慰霊碑』を訪ねて(2017.01_メモ)

今回は、安政元年に連続発生した「安政伊賀上野地震」「安政東海地震」「安政南海地震」。それぞれに所縁の遺構を紹介する。

 

■金砂稲荷神社・野寿田新田跡(四日市市高砂町)

 

1854年7月9日(嘉永7年・安政元年6月15日)に発生した「安政伊賀上野地震」(死者約2000人)、同年11月4日(嘉永7年・安政元年12月23日)午前9時頃に発生した「安政東海地震」(死者2~3000人、数万棟が倒壊・焼失)、さらに明治の高潮の被害を受けた地域。当時の堤防も水門も完全に破壊された。

 

 

明治6年(1973年)に建立された稲荷神社には、伝承の由緒書きが存在するが、鎮守のお稲荷様なので、四日市港の発展を祈るものが主であり、安政東海地震など過去の自然災害については特に触れられていない。金砂神社の目の前の道は海に面している。現在では堤防が整備されているため、海を見ることはできない。初めてこの場に来た者としては、すぐ裏側に海があるという実感は、必ずしも持てない。しかし、この場こそがかつての悲劇の中心の地であったことは是非記憶しておきたいところである。

 

 

 

■旧四日市港(四日市市高砂町稲 稲葉翁記念公園)

 

1854年11月4日(嘉永7年・安政元年12月23日)午前9時頃に発生した「安政東海地震」の32時間後となる1854年12月24日(嘉永・安政元年7年11月5日)午後5時頃、「安政南海地震」が発生し、西日本一帯を中心に大被害をもたらした(死者数千、家屋消失数万棟)。いずれもマグニチュード8.4という連動巨大震災であった。

 

 

 

四日市の工業地帯と産業を支える要、四日市港。江戸幕末も主要な港の一つである。安政東海地震・安政南海地震の連動により、四日市の港もまた壊滅的な被害を受けた。流砂によって港が埋まってしまったのである。復旧は明治の世になってからだった。回船問屋当主の稲葉三右衛門翁は、私財を全額投じ、さらには多額の負債を背負いつつ、地域の埋め立て地工事と、波止場修復に着手した。1884(明治17)年に、四日市港復旧は完遂され、埋め立て地は「高砂町」と名付けられた。その功績は、「稲葉翁記念公園」内の「稲葉三右衛門君彰功碑」として残る。ところが、その後明治期に、再び暴風波浪によって四日市港は大破してしまう。稲葉翁の思いを受け継いぎ、今度は消波機能を備えた「潮吹き防波堤」が設計された。明治26年に完成した防波堤は、オランダ人のヨハネス・デ・レーケによる画期的なものであった。堤防は外側「小堤」と内側「大堤」の二列構造となっている。大堤には五角形の「水抜き穴」が49か所に設けられている。非常に珍しい構造物である。過去に津波被害や高潮被害を経験していたからこそ、それを防ごうと知恵を絞って導入された当時の最新技術であった。

潮吹き堤防レプリカと再現プール。ボタンを押すと波が起きて大堤の水抜き穴から水が出る様子を観察できる。

 

 

「四日市旧港湾港施設」は、近代産業遺産として国の重要文化財登録がなされている。とはいえ、説明書きのプレートには、安政東海地震・安政南海地震への言及がない。近代産業を支えた「潮吹き堤防」技術は世界的に珍しいが、そのような最新のアイディアと、莫大な私財投入の背景には、「安政大震災からの復興」という根源的なものがあったのだ。これらの思いがあってこそ、近代遺産はその価値を増すはずだ。合わせて記録し、発信していく必要があるのではないだろうか。

 

 

「波止改築記念碑」

 

 ■建福寺「安政元年震災惨死者之碑」(四日市市北町)

「安政伊賀上野地震」「安政東海地震」「安政南海地震」など嘉永七年(安政元年)の大震災供養のための碑が曹洞宗建福寺にある。建福寺は織田信長の軍勢、安政大震災、明治の大火、そして太平洋戦争と4度の火難にあっているとの記録が、本堂近くの碑文に記録されている。

 

 

 

 

【主な参考文献・資料】

宇佐美龍夫『日本被害地震総覧 599-2012』(東京大学出版会2013)

一般社団法人中部地域づくり協会・地域づくり技術研究所「中部災害アーカイブス」